『おどるでく』室井光広

多和田葉子が『現代文学の読み方・書かれ方 』の中で、注目しているだったか、気になるだったか、現在そいう作家は誰かいるかと尋ねられて室井光広を挙げたので読んでみた。
著者のあとがきです。

あとがき
(略)
 物語小説の王道から逸脱した語りにともすれば転落しがちなここなる小説家失格者の作物にもしも読者がいるなら、その人々に向けてささやかな弁明を試みておきたいというのが、無くもがなのあとがきを付した理由のすべてだ。

あとがきの中身に共感するところがあって引用を始めたが、読んでいるときに感じた著者の文章の分りにくさは、書き写してみるとやはり本物だった。すくなくともこの部分は分りにくい。「ともすれば、ここなる、もしも、ささやかな、無くもがな、すべて」などのためか「晦渋」を体現したような文章になっている。

「あとがき」の引用を続けます。同じ調子の文章ですが、そこはさておき中身をご一読ください。
(偉そうな言い方で気が引けますが)

歪められた物をめぐる妄想を紡いだ本書が読者を限定するのは避け難いとしても、それらの歪みがもっぱら”知識”によってもたらされている感じられてしまうこと、それこそ作者の”かなしみ”とする事態に他ならない。ここにいう”知識”は作者の考える”かなしみ”の対極に位置するものであり、ややもするとそれを台無しにしてしまいかねない存在だ(そして厄介なことに”かなしみ”は似て非なる感傷によってもスポイルされうる)。たしかに知のペルソナはこの歪み小説の中にあって看板のように浮き立って見えるかもしれない。しかし、ソウデハナイソウデハナイと、私は声なき声を漏らす。
(後略)
1994年6月