続、『カタコトのうわごと』 多和田葉子

この図書室でわたしが一番嫌いな本は、第二次大戦前に出た〈桃太郎〉の絵本で、桃太郎の頬のほんのり火照った色合いと黒い瞳の輝きにもぞっとするが、その桃太郎が血液の染みひとつ作らずに、西洋人や中国人の顔をしたオニたちを殺して、宝物を略奪している場面には、鳥肌が立つ。この本の前を通るとき、わたしはやめようと思いながらも、必ずまたこの本を手に取ってながめてしまう。そして、そのいやらしさに毎回あらためて、ぞっとする。この桃太郎の表情の持つある種の〈健康さ〉と〈清潔さ〉は、わたしたちが歴史の中で卒業してしまったものではなく、今も引きずっているものではないかという気がするからこそ、ぞっとするのだろう。

引用文中の「この図書室」というのは、ハンブルグ大学日本語学科の図書室。

私の今書いている小説には、この〈桃太郎〉の末裔の〈しんぞう〉が登場します。〈しんぞう〉は「ひとつで十分」ということで消えていきます。