映画

朝、孫一からLINEで「りんりんが映画を観ませんか?とのこと」というお誘いがあり、喜び勇んで観てきました。こうしてLINEの文面を見直すと「観る」という字を使っているのは偉い。「…とのこと」の後ろには絵文字が入っている。なかなか良い。
観た映画は「思い出のマーニー」でした。泣きはしませんでしたが、良かったです。冷房がきつかったせいか、ひ孫一をトイレに二回(私が通路側だったので)連れて行きました。二回も、と言うかも知れませんが連れて行った二回とも私もご相伴しましたから−−ここで入り口に毛布があったことを思い出した−−無理もないと思います。「会場内はかなり冷えます。トイレの近い方は念のため毛布をお持ちください」という掲示をした方が良いかもしれない。終わった後、映画を真似して、孫一と感想をひとつづつ言い合いました。孫一は「私は話を知っていたけど楽しめた」。私は「しばらくは話の余韻に浸っていたかった。大勢の名前が出てきて、絵とか、動画とか製作関連はまだいいが、財務担当とか管理とかになるとちょっと醒めた。全員の協力で作ったという製作側の気持ちはわかるし、名前を表示するのは構わないが、最初に一部表示、終わりに一部表示というような工夫もあるかと思う」。
何となく記憶にあったので、帰宅していつも見に行くブログを見たら原作のことが書いてあったが、その内容はまったく忘れていたので、問題ありませんでした。私は髪の長い女の子については世代を間違えました。その方が自然なような気もするのですが。
「類型」を使用するシーンもあった。”バイク”で走り去る場面なども、小説で言えば常套句で済ませている、と言えないこともないが、ある長さの中に納めるためにはそれも仕方がないかもしれないが、どうもバイクについては常套句というより偏見に近いかもしれない。いくら現実にそういった見方があるとしても、芸術が偏見に寄りかかってはいけないと思う。

追記

屋敷の玄関を開けて、男女が姿を現すところは、作り手(原作ではなく映画の)もそうだったと思うが「グレイトギャツビー」の中のシーンを思い浮かべた。