「たたらの人」と「たたらの先の人」と「クッションの良いスツール」

たたらを踏むときの脚の動きは通常歩いているときと異なった神経系統で動かされているのではないだろうか。100メートル競争のスタート直後にたたらを踏んだら、転んでしまったらだめだが、踏みとどまって走り続けたら、時間短縮に繋がるのではないだろうか、というのはさておき、前方に人がいるから止まりましょう、というわけにはいかないのがたたらだ。前方に人がいたら、その人の足元に倒れるか、膝の辺りに摑まるか、腰の辺りに摑まるか、はたまた持ちこたえて上半身が起きるころだったら、正面衝突か。
先日、わたしは「たたらを踏んだ人の前方にいる人」になりました。周囲がガラス窓になっている展望台の窓際に双眼鏡があります。コインを入れて一定時間覗けて、時間が経つとカシャッという音がして目の前が灰色になるあれです。振り向いたその人は双眼鏡から離れようと一歩踏み出したところで、たたらを踏みました。起こった一連の出来事の最後に「床と同じで紛らわしい……」とつぶやくのが聞こえましたが、色も材質も床と同じカーペットが、おそらく床を貼ったときに一緒に貼ったのでしょう、踏み台の上にも貼ってあったのです。双眼鏡を覗いているうちに踏み台の上に乗ったことを忘れ、踏み出すときに視界の隅に入った足元も同じ平面のように見えて、同じ平面のつもりで一歩踏み出したわけです。踏み出した脚がなかなか床に着かなかったわけで、慌てたと思います。双眼鏡の前の踏み台は四十センチよりは高かったと思います。双眼鏡の右斜め後方に向かって、たたらを踏んで来ました。そのたたらの先で、わたしはガラスの向こうの景色を眺めていました。その人を見ていないわけで、たたらを踏んでぶつかって来たとは思わずに、子供が人のいるのに気がつかずにふざけていてぶつかってきた、というのがお腹の辺りに灰色の(灰色の服を上着を着ていました)弾力のある肉体を感じながら頭に浮かんだことです。その人にとってもわたしにとっても幸運だったのは、わたしのすぐ後ろに、一辺が六十センチ高さ四十センチくらいのクッションの良い安定したスツールがあったのです。わたしはたたらの人をお腹に抱えたまま、そのクッションの良いスツールに倒れ掛かりました。やはり身をかわそうとしたのか左半身で、左の肘を突くようにもたれかかりました。左の足首を捻りましたが、痛みは、十分もしないうちに治まりました。「たたらの人」は灰色のトレーナー、黒のジーパン、スニーカーという格好の二十代の女性で、特に怪我もなかったようでした。彼氏と一緒に来ていたようでした。