『雲をつかむ話』多和田葉子

鏡の前を離れたマボロシさんは襦袢の上に刺し子の胸当てをぴたりと当てて後ろで紐で結んで固定する。
(中略)
胸当ては柔らかい布製だけれども、目で見た限り、野球のキャッチャーの防具を思い出させないこともない。マボロシさんはおどけてキャッチャーが腰をかがめて指で合図を送るポーズをしてみせる。ドイツの人は野球は観たことはないし、キャッチャーが何なのかも知らないから、この冗談は空振りだったかと言えばそうでもない。ふざけていることは誰が見ても分かる。ふざけることができる人は脳味噌が大きくて、中にたくさん部屋がある。もし部屋が一つしかなかったら、その部屋は道成寺の蛇で一杯になってしまって、ふざける余裕なんかなかっただろうから。

マボロシさんというのは、おそらく花柳幻舟
十人中八人は「サイン」とするところを「合図」と書いているところが、ドイツ語でも書く作者故か、野球にあまり興味がないかだろうと感じさせる。