飛び飛びの話 終わり

キリスト教には「創造の秩序」という概念があるようです。

下記はインターネットからですが、

「神の定めたまいし順序があります。「女のかしらは男なり。男は女より出でしにあらず。女は男より出でしなり。男は女のために作られしにあらず。女は男のために造られしなり」とあります。男は神の代表者として造られ、女は男の補助者として造られたのであります。共に神に仕うべきであります。しかし男は指導者として、女は助け手として仕うべきであります。この場合において、妻が夫に従うは、神に従うの道であります。従うは、従わるるだけ、それだけ神聖でありまた名誉であります。神の律法に従うところにおいてのみ、真の自由があります。男は神をかしらに戴いて真の自由を得、女は神の代表者なる男をかしらに戴いて、これまた真の自由を得るのであります。」内村鑑三 1928年5月 『聖書之研究』

驚くべき内容です。これを読んだ女性は「何寝言言ってんだか」と思わないはずはないと、私は思うのですが。
さて「性の違いから本来的に発生する役割分担」というものは、生殖以外に、存在するのでしょうか。「存在して合理的」なのでしょうか。愛し合う男女の間ではあるかもしれませんし、その辺りに経験のない私が過剰に反発している、ということはないこともないなと、頭の中にありますが、そうかといって(その宗教の中にしろ)一般原則としてしまっていいのかと思います。

でも、良く考えたら、良く考えなくても、私は信者ではないので「門外漢」ということになります。