『尼僧とキューピッドの弓』多和田葉子

多和田葉子の作品ということで読んだ。分量にして75%を占める第一部は、主人公(作家)が尼僧修道院に調査(「卒業論文のための調査」といった感じ)で何日か女子修道院で暮らす間の話で、その修道院の実際の生活面についてはほぼ事実通りに書いているのではないかと思う。
もう一つ分かったのは、プロテスタントカトリックの違いがかなり根源的な違いであるようだということが分りました。
次のような会話が主人公と透明美さん(修道院長代理。主人公がその人から受ける印象でみんなにあだ名を付けます。前の前の尼僧院長、老老尼僧院長は「老桃」さん)、との間であります。最初の発言者は主人公です。

「でも、基督教の求める神は唯一の神ですよね。つまりすべての人間にとってそれ以外の神はいないということですよね。それを知らないで生きている人は不幸だから救ってあげないといけないんじゃないですか。そうすると布教は義務ではないのですか。」
明美さんは、ますます確信に満ちて答えた。
「わたしには布教の意志は全くありません。自分の子供たちに、文学作品を読めとしつこく勧めて嫌われたことはありますが、信仰を勧めたことはありません。信仰は個人の心に自然に湧き起こってくるものだと思います。」
「それならどうして宣教師というものがいたんですか。」
「それはカトリックの話ですよ。わたしなどは東プロイセン的な文化を呼吸して育ったので、同じ基督教と言っても、カトリックのことは全く分りません。ローマ法王が画面に現れると、電源を切ってしまうくらいです。

引用してからその引用内容を「薄めるておく」、といった論法を良く使うという意識が自分でもあります。《こうして引用しましたが、これはあくまで小説の中の会話です。》と書き添えるわけです。いろいろ調べたわけではありませんから。でも、このような会話があったことは、私は信じます。