『小説のように』アリス・マンロー

「顔」より。

 この場所であることがおきた。人生においては、何かが起きた場所がいくつか、あるいはもしかしたらたったひとつあり、そしてその他いろいろな場所がある。
 もちろん、もしナンシーを見つけていたとしても−−たとえばトロントの地下鉄で−−どちらもがすぐに見分けのつくしるしを負った私たちは、十中八九、よくあるどぎまぎした意味のない会話を交わすだけか、自分に関するどうでもいいような事実をそそくさと列挙するくらいがせいぜいだっただろう。ほとんど普通に見えるほど修復された頬、あるいはいまだはっきりとわかる傷に私は気づいたことだろうが、おそらくそれが話題にのぼることはなかっただろう。子供の話題が出たかもしれない。彼女の頬が修復されていようがいまいが、それほど可能性のないことではない。孫のこと。仕事のこと。私が自分の仕事のことを彼女に話す必要はなかったかもしれない。私たちは驚き、やあやあと挨拶し、立ち去りたくてたまらなくなっただろう。
 そうなったら事情は違っていただろうか?
 答えは、もちろん。そして、当分のあいだは。だが絶対にそんなことはない。

「木」より。

 彼がこう言っているあいだ、彼女は何か病院のことを言っている。
 「……あなたを診てもらわなくちゃ。大事なことから先よ」
 彼の知る限り、彼女はこれまでトラックを運転したことはない。こんなにちゃんと運転できるなんて、すばらしい。
 森林(ルビ=フォレスト)。この言葉だ。見慣れない言葉ではないが、たぶん彼が使ったことのない言葉だ。彼がふつう敬遠してしまう類の格式ばった響きがある。
 「人気のない森林」と彼は言う。あたかもそれが何かにキャップをはめてくれるかのように。

作品から作者について感じたこと。「どうもしっかりした感想が書けなくて、あいすまんのぉ」と言って、通訳がそれを耳元でささやいたら大いに笑ってくれそうな人、そういう感じを感じました。