『「自分の子供が殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』森達也

シンポジウムの際に高校生たちは、「被害者の人権を軽視しましょう」などと発言していない(当たり前だ)。ただし加害者(死刑囚)の人権について、自分たちはもっと考えるべきかもしれないとのニュアンスは確かにあった。そしてこれに対して会場にいた年配の男性は、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」と反発した。つまりこの男性にとって被害者の人権は、加害者の人権と対立する概念なのだ。
でもこの二つは、決して対立する権利ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。加害者の人権への配慮は、被害者の人権を損なうことと同義ではない。

ならば「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」と断言する人たちに、僕はこの質問をしてみたい。

もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってもよいのですか。

被害者遺族の思いを想像することは大切だ。でももっと大切なことは、自分の想像など遺族の思いには絶対に及ばないと気づくことだ。犯人への恨みや憎悪だけではない。多くの遺族は、なぜ愛する人を守れなかったのかと自分をも責める。あのときに声さえかけていればとか用事など頼まなければよかったなどと悔やみ続ける。その辛さは想像を絶する。地獄の思いだろう。その思いをリアルに想像することなど、僕にはできない。とてもじゃないけれど、「遺族の身になれW」などと軽々しく口にはできない。
その前提を置きながら「自分の身内が殺されてから言え」とか「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書く人に言うけれど、もしも僕の身内が誰かに殺されたら、僕はその犯人を激しく憎むだろうし、死刑判決がでなければ自分で殺したいと思うかもしれない。当たり前だ。だってそのときの僕は当事者になっているのだから。

でも今は当事者ではない。

当事者には当事者の感覚があるし、非当事者には非当事者の感覚や役割がある。

追記

失礼しました。書名が間違っていました。

「聴きたい」ではなく「訊きたい」でした。