『エゴン・シーレ』 坂崎乙郎

シーレほど自画像を描いた画家は珍しい。このこと自体、クールベセザンヌゴッホゴーギャンなどに共通する近代人の意識だが、彼の自画像がかれらのそれと異なるのは、自虐の傾向のはなはだしさであり、辛辣きわまりないアイロニーだろう。それらの自画像は聖セバスチャン風の殉教者であるかと思えば、独房にうずくまる囚人であり、哀れなピエロかと思えば、引き裂かれ投げすてられた肉塊である。
頬は落ちて、眼ばかり大きく、異様に痩身である。痩身というより、暴力的に引き伸ばされた肢体である。

ナルシスム−−これがシーレの本質を解く鍵にちがいない。彼が早期に完成したのも、激越なナルシスムのゆえであり、彼の作品を世の道学者たちがしたり顔に背徳と糾弾するのも、ポルノグラフィとして卑俗に解釈しようとするのも、ナルシスムへの無理解によるのである。
ナルシスムは単純な自己愛の場合もありえよう。たとえば、クールベが〈黒犬をつれた自画像(1844年〉を、アングルが二十四歳の〈自画像〉(1804年)を制作したときの心境である。
しかし、シーレの分身とも見られる数多くの自画像と、彼の趣好と血液を十二分に注入したとしか考えられぬ数かずの自画像を眺めていると、ナルシストが二つの自我をかかえていることは明白だ。エゴンとシーレである。それは、自己陶酔と自己憎悪であり、シーレの作品は両者のあいだを間断なく揺れ動いている。肉は切り裂かれ、肉は縫合される。正確にはシーレの意識がたえず和解を求め、敵対するのだ。
ナルシストの中には、冷酷な外科医と手術をうける患者、加害者と被害者、見る者と見られる者、愛する者と愛される者、男性的なるものと女性的なるものが共存し、そこに「おのれ自身の美に満ち足りるものはアンドロギュヌス(両性具有)だ」という論理も成り立とう。
それら、二つの自我は肉体をとおして結ばれることがない。それらを結びつけるのは常に精神であり、精神であるがゆえに対峙は緊張をはらむ。シーレの作品の異常とも感じられる衝撃性はここから放射されている。