萱崖とは何か考えた 結論 「崖」は「崖」で「原」の代用ではない

「ススキの白い穂が、なだらかな曲面を作っている景色を女性の胸と見た」という出だしの解釈が間違っていた。「すすきのような、ある程度の高さのある植物が群れ立っている中に立っていると安心感を感じる」というのがこの歌の出発点だと思う。
作者は崖の上のすすきの原に立っていた。崖の突端に近いところで、崖下を見ると本来ならば恐怖心を覚えるはずなのだが、まわりをすすきで囲まれているので、まるで母の胸に抱かれているようで、高いところに立っていることなど忘れてしまい安心だ。
こうではないだろうか。なお、吉川英治は実は高所恐怖症であったそうだ、というのは私の想像です。
最初に戻って「萱崖」とは何か。「すすきの生い茂った崖の上の部分」だと思います。
「たかきをわすれ ただぬくもれり」のところの「たかき」を、「男女関係で世間体から見て危ないところまで来てしまった」というような解釈もあるかもしれない。前回講座の中で講師が、この歌を詠んだとき、その先結婚することになる女性と一緒に居たという話をしていましたし。


参考ということになるかならないか、若山牧水ですが「萱原」を使っているものです。

飛ぶかげのをりをり見えて萱原の垂穂が原に虫の鳴くなり