『円と楕円の世界』後藤明生

表題の書中の「迷路あるいは現実」発表誌「早稲田文学」昭和46年10月より引用。

何をどういうふうに書いてもよろしいけれども、書かれたものが結果として、「現実とはこういうものだ」というふうな形になっていればいんじゃないかと思うわけでして、それはまた、世界であってもいいわけです。つまり、何をどのように書いても、その結果が、「現実とはこんなものだ」「世界とはこんなものだ」という形になっておれば、よい。これは、その反対の場合を申しあげると、わたしの考えは幾分はっきりすると思いますが、どういう場合がいけないかといいますと、何をどのように書いた場合も、「こういう現実もある」「こういう現実もあるんですよ」という形になるものはいけないということです。
蟻一匹が書いてあってもいいし、また人間ひとりの日常生活が書いてあってもいい。結果としてその小説が「現実とはこういうものだ」という構造を持ったものであるならば、何をどういうふうに書いてもいい。これに反して「こういう現実もあるんですよ」という結果になる小説は、如何なる現実、如何なる事件、如何なる壮大なる出来事あるいは如何に面白可笑しい素材が、アンチロマンふうに書かれていようと、少女小説ふうに書かれていようと、それはいけない、というふうにわたしは、考えているわけです。
ここで一つの例をあげますと、カフカのなかに『独楽』という短編があります。短編というより、五、六枚位の断片ですが、これは、ある哲学者がひとりいて、夕方になると必ず、遊園地へぶらぶらと出かけて行くと、そこで子供が独楽を廻している。哲学者はその独楽をじっと見つめていて、廻っている独楽をパッとやにわに掴み、手のひらの上にのせて暫く眺めているが、やがて独楽をポンとまた地上に捨てて、それで、サッサと帰っていく。ところでカフカは、そこで何をいうかというと、つまり「全てを知る必要はなんにもないのだ。独楽なら独楽というものをひとつ知れば、全ては分ったことと同じになるのだ」というようなことを、ヌケヌケといってのけているわけです。まさに、ヌケヌケといってのけているわけですが、そこにはわれわれをアッとおどろかすものがあります。つまり、何をどう書いてもよろしい。「現実とはこんなものだ」ということは、独楽を通じてさえいえるということです。
一個の独楽、それも子供が廻しておるところの小さな独楽ひとつを取り上げても、これは現実だということはいえる。そして、逆もまた真なりであって、「こんな独楽もありました」「実に珍しい独楽ですね」ということは、いくら書いてもしようがないということです。「こんな新しい、こんな珍しい独楽もありますよ」では小説とはいえない。小説としてはダメであるというふうにカフカはいっているのだ、とわたしはこれまた勝手に解釈しているのであります。反対に唯一個の独楽を書いても、「現実とはこんなものだ」という構造を持つならば、これは小説だということです。そういうふうにわたしは考えてみているわけです。

何となくいいことが書いてあるように思いましたので、引用しました。