『太宰治賞2013』筑摩書房 その2

さようなら、オレンジ」の構造についての対照的な評価も面白かった。以下は、三浦しをんの選評にもあるが、「以下、本作の構造についてのネタバレなのでご注意ください」ということになるのだろうか。
小川洋子

ここでどうしても触れておかなければならないのは、視線の送り手が、作品の中に登場している点だ。日本人サユリは、自らも言葉の壁に苦しみつつ、更には子供を亡くす不幸にも見舞われながら、ナキチをサリマとして描き出す決意を固める。その過程が手紙の形で挿入されるのである。
一歩間違えば破綻しかねない手の込んだ構造なのだが、全体を見通してみると、この書き方でしか成立しない物語なのだと納得させるだけの力を備えているのが分る。サリマ(ナキチ)とハリネズミ(サユリ)、二人の苦悩が重なり合い、響きあうことで、言葉に関わる闇の密度がいっそう濃く立ち現れてくる。

三浦しをん

素直に言おう。メタ構造だとラストでわかった時点で、「じゃあこの話は、いろいろつらいこともあったけれど、周囲のひとから励まされ、『きみには才能があると』と言われ、『そうかも』と思ったサユリが書いてみた小説ってことなのか」と、少々鼻白む思いがなくもなかった。(中略)
現状、三人称でサリマについて語られている部分は、なぜナキチの名ではだめなのか。いや、メタ構造を成立させるためには名前の変更が必須なわけだが、では本作においてメタ構造にする必要は本当にあるのか。単行本化する際、作者および担当編集者は、作品のために、もう一度考えてみていただきたい(その結果、やはりメタ構造を採用するなら、それはそれでいいのではないかと思う)。
この作品を素晴らしいと感じ、登場人物たちに肩入れしたがゆえに、長々と書かせていただいた。技巧にもっと自覚的になる。登場人物が技巧によって駒に変じてしまう可能性を回避する。それを心がけるのが大切だと、個人的には考える。