読んでよかった、『火花』又吉直樹

気に入った箇所を引用しようとページと行を控えていったらたくさんありすぎて、途中で止めた。

祭りのお囃子が常軌を逸するほど激しくて、僕達の声を正確に聞き取れるのは、おそらくマイクを中心に半径一メートルくらいだろうから、僕達は最低でも三秒に一度の間隔で面白いことを言い続けなければ、ただ何かを話しているだけの二人になってしまうのだけれど、三秒に一度の間隔で無理に面白いことを言おうとすると、面白くない人と思われる危険が高過ぎるので、敢えて無謀な勝負はせず、あからさまに不本意であるという表情を浮かべながら与えられた持ち時間をやり過ごそうとしていた。

こういう長い文章は、わたしは好きです。「三秒に一度の間隔」のように、文章の比較的近いところで、ある程度の長さのある句を繰り返すのも好きです。これが、本の一ページの最終行から始まるのですが、作者の「宣言」と読めば読めるかもしれません。

雨粒は激しく路面に弾かれていたので

雨粒が路面を打つ、ではなく、弾かれる、と見た見方が新鮮だと思った。まてよ。これを新鮮と感じるようでは、わたしの感性がかなり摩耗しているのかも。

だから、これだけは断言できるねんけど、批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる」

これについては、現実の漫才の世界では、批評をやり始める時期が漫才師としての能力が落ちる時期と一致している、という見方もあるかな、とも思う。いずれにしても、わたしは、書きたいのだが書けず、他人の書いたものを批評するのは、好きだ。忸怩たる思い。

だが、その想いを雨が降っていないのに傘を差すという行為に託すことが最善であると信じて疑わない純真さを、僕は憧憬と嫉妬と僅かな侮蔑の入り混じった感情で恐れながら愛するのである。

憧憬、嫉妬、侮蔑。良く使われる漢語の連発。小説の教室では赤が入るかもしれない。でも、ここ一番というときに使われると効果を発するものだ、と思った。ただし『火花』の中に、こういうところが何か所もあるわけではない。ここが印象に残るのだから、多くはないだろう。

花火で始まり花火で終わり、題名が「火花」。そこも、上手いな、と思う。是非、ご一読を。