二倍濃縮の討死

三分の一くらい減った麺つゆだから封を開けてからそんなに日数は経過していないはずだが、あれ?すっぱいかな、と感じて慌てて冷蔵庫で保管することにした。それが半月ほど前かも知れない。その後、微かなすっぱさ−−人によっては何これ!ということで捨ててしまう人もいるかもしれない−−は、進行もしないが、無くなりもせず、使い続けている。蕎麦を食べるときテーブルの上に出したそのボトルを見ると「二倍濃縮」と書いてある。この夏は二倍濃縮では、生き残れなかったようだ。2018年は暑い夏だった。

七夕の願い事

スーパーに、作り物だけれど笹があって、願い事を書いた短冊が下がっていた。横のテーブルの上に、何も書いてない五色の短冊とサインペンが置いてあった。書いてみようか、と言うとうん、と言って書き始めた。考えるのに時間がかかるだろうと思っていたら、ささっと書いたので少し驚いたが、書いた内容を読んで、内容にも驚いた。願いとしてはおかしくないのだが。ちょっと見ただけで笹にさげてきたので、次の日にもういちど正確には何と書いてあったか、そのスーパーにひ孫一の書いた短冊を見に行った。わたしがぶら下げたからおおよその場所は覚えていたが、なかなか見つからず、あきらめようかな、と思い始めた頃に見つけた。次のように書いてあった。

おかさんとずっといれますように

落ちた木の実の影

公園の中の遊歩道のなだらかの上り勾配のところに木の実がたくさん落ちている。その木の実に影ができている。こんな小さいものにも影ができるのか、と驚く。太陽の方に向かって上っている道路の傾きと、日の出間もない太陽の光の角度がかなり近い角度になっているせいかと思うが、自分の直径よりも長い影ができている。「一寸の虫にも五分の魂」というけれど「五分の木の実にも一寸の影」。

どう解釈しますか?

電車を降りてすぐに市の指定ゴミ袋を買った。レジ袋に入れてくれた、それをそのままリュックにしまって次にスーパーで買い物をした。リュックに納まる分量だけ買うつもりだったが少し買いすぎてリュックに入りきらなかった。リュックからさっき買ったゴミ袋の入ったレジ袋を出し、ゴミ袋はリュックに戻し、スーパーで買ったもののうちキャベツだけをレジ袋に入れた。
こうして「キャベツだけが入ったレジ袋を手にぶら下げて歩く」ことになった。キャベツだけが入ったレジ袋を手にぶら下げて歩く。経験がありますか?いろいろ買って、その中にキャベツもあって、それら全部が入ったレジ袋を手にぶらさげて歩くことは珍しくと思いますが、キャベツだけが入ったレジ袋をぶらさげて歩くことは、ありそうでないのでは。わたしは、ないです。もう何十年も、買い物袋、最近ではリュックを使っていて、普通はレジ袋は使いません。たまにはありますが、キャベツだけが入った状態で手にぶら下げることは、大げさかもしれませんが、生まれて初めてかもしれません。
それで、キャベツだけの入ったレジ袋を手に持って歩いていたのですが、そのとき頭に「生首を手にさげている」という考えが浮かびました。浮かんだといっても、水面から顔を出すところまでではなく、浮かび上がる前にまた沈んで行った、というような浮かび方でした。掠めた、といった感じ。
自分の記憶でない、祖先から受け継がれた記憶、というようなものがひょっとするとあるのかもしれない、と少しだけ思いました。といっても、少しだけ、で信じてはいません。あるいはそうではなく、わたし自身が凶暴性を持っていて、それでそんな考えが浮かんだのかもしれませんが。

栗の木を見てきました

昨日の朝、田んぼの方に行ってきました。栗の花は散っていませんでした。栗の木からは離れていますが、同じ道で、花が散って二日後に梅雨入り、という話をしてくれた人に会いました。それで栗の花の話をしました。話の中で分かって少し拍子抜けしたのですが、というのは神秘的な雰囲気のある地方、例えば熊野とか、の言い伝えではないかと勝手に想像して、その人に会ったら訊いてみようと思っていたのですが、次に会ったら訊いてみようと思っている人とはなかなか会わないことが多く、こんなにすぐに会うとは珍しいのですが、こちらから訊く前にその人の方から話しがあり、その話は、テレビの天気予報で気象予報士が言っていた、とのことでした。
五日の写真は携帯(507SH)で撮ったもの、下の写真はデジカメで撮ったものです。