後姿
三か月か半年ぶりに、その人ーーわたしと同年配の男性ーーに、いつもの場所でいつもの時間に出会った。時間は午後4時台。わたしは犬の散歩の途中で、その人は、今回もそうかどうかは分からないが、以前の立ち話で聞いた話と同じであれば、早めの夕方から開く居酒屋へ繰り出す途中だ。
立ち止まってあいさつを交わしただけだか、その人は元気そうだった。顔色は小麦色でつやつやして、目は大きく開いていてくりくりしていて、言葉も明瞭で、背筋も伸びていた。前より若返ったように感じた。別れて、すごいな偉いな、と思いながら少し歩いて、振り返った。その人の後姿はまだ見えた。あれ?と思った。足が外を回っていた。前に出る足が、後ろから見ると、体の外側を通って内側に入って前に出ていた。
わたしもそうなのだが、足の上がり方が少ないと、足をまっすぐ前に出すと踵が地面に付いてしまう。それで足を外に振ってから前に出すようになる。その人もおそらくそうなのだと思う。やはり老いはあったか、としばらく後姿を見ていた。
芥川賞・直木賞の候補作についての対談を読んで
杉江松恋氏とマライ・メントライン氏の対談です。
https://qjweb.jp/feature/29973/
https://qjweb.jp/feature/29983/
マライ・メントライン氏の感想が、なかなか的確だと感じた。
「アキちゃん」三木三奈
小学五年生のわたし、十八のわたし、と出てきますが、「良い」とか「悪い」ではなく、わたし(これを書いているわたし)の考える「年相応」とは、ずれているような気がしました。
アキちゃんの苦労は小学五年生でも分かるんじゃないかな。分かるというより、目の前で見たはずでは。アキちゃんから酷く虐められていた「わたし」にも、見えるものは見えたはず。
十八の「わたし」が小学校のころの同級生のタナさんと会って、アキちゃんのことを訊ねて、タナさんが次のように答えます。
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「だってさ、中学ってホラ、違う小学校のコも混ざるじゃん。そのコたちはさ、アキのこと知らないわけじゃん。そうするとさ、やっぱりアキだって小学校のときみたいにはいかないよ。男子はガキだからさ。あの子も結構ひどいことを言われてたけど、あたし達だって、いちいちかばってられないじゃん」
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(最後の一文の「あの子も」は「あの頃も」の誤植ではないかな)
タナさんの言葉を聞いたあとの部分
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わたしにはいろんなことがわからなくなっていた。アキちゃんが中学でどんないじられかたをして、どんなパシられかたをしたか、男子にどんなひどいことを言われ、どんなふうにかばってもらえなかったのか、わたしには何もわからなかった。
いまとなっては多少、想像することもできる。けれどもあのときのわたし、十八のわたしにはアキちゃんがうけた仕打ちについて考えることができなかった。
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さらに、もう少し後ろでは
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(前略)アキちゃんの人生はどんなふうだっただろう、と考えたとき、アキちゃんはすでにそれを何度考えただろうと、そう思ったのも、十八のころでなく、もっとずっとあとになってからで、そのときのわたしは何も考えなかった。
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選評の中では、円城塔、東浩紀の選評に頷けるところが多かった。
川上未映子の選評「アキちゃんを推す」で気になったところ。
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(前略)つまりこの作品は、言い訳することなく、またうまくハードルを飛び越えたと感心もさせない方法で少女たちが「今も生きている時間」を描くことに成功した、(後略)
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上の引用部分の「少女たち」は「イメージとしての存在」のように感じられる。「少女たちが」と書いたところで、紋切り型になってしまう。
カレンダーを進める
昨日、座って目の前にあるカレンダーの六月を切り取ったら七月が現れた。「文月」という文字があった。手紙をたくさん書こう(「たくさん」と書くと、少しは書いていてその量を増やそう、と読めるが、本当はぜんぜん書いていない。でも一時期はかなり書いた)と思った。
七月二十四日のところに赤字で「オリンピック開会式」と書いてあった。来年の今月にはオリンピックの開会式があるだろうか。オリンピックを迎えるとしたら、新しい政権で迎えたい。百歩譲っても、新しい首相で迎えたい。
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百歩(ひゃっぽ)譲(ゆず)・る
自説を引っ込め、相手の主張を大幅に認める。最大限に譲歩する。
「―・ってもその条件だけはのめない」
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