「アキちゃん」三木三奈
小学五年生のわたし、十八のわたし、と出てきますが、「良い」とか「悪い」ではなく、わたし(これを書いているわたし)の考える「年相応」とは、ずれているような気がしました。
アキちゃんの苦労は小学五年生でも分かるんじゃないかな。分かるというより、目の前で見たはずでは。アキちゃんから酷く虐められていた「わたし」にも、見えるものは見えたはず。
十八の「わたし」が小学校のころの同級生のタナさんと会って、アキちゃんのことを訊ねて、タナさんが次のように答えます。
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「だってさ、中学ってホラ、違う小学校のコも混ざるじゃん。そのコたちはさ、アキのこと知らないわけじゃん。そうするとさ、やっぱりアキだって小学校のときみたいにはいかないよ。男子はガキだからさ。あの子も結構ひどいことを言われてたけど、あたし達だって、いちいちかばってられないじゃん」
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(最後の一文の「あの子も」は「あの頃も」の誤植ではないかな)
タナさんの言葉を聞いたあとの部分
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わたしにはいろんなことがわからなくなっていた。アキちゃんが中学でどんないじられかたをして、どんなパシられかたをしたか、男子にどんなひどいことを言われ、どんなふうにかばってもらえなかったのか、わたしには何もわからなかった。
いまとなっては多少、想像することもできる。けれどもあのときのわたし、十八のわたしにはアキちゃんがうけた仕打ちについて考えることができなかった。
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さらに、もう少し後ろでは
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(前略)アキちゃんの人生はどんなふうだっただろう、と考えたとき、アキちゃんはすでにそれを何度考えただろうと、そう思ったのも、十八のころでなく、もっとずっとあとになってからで、そのときのわたしは何も考えなかった。
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選評の中では、円城塔、東浩紀の選評に頷けるところが多かった。
川上未映子の選評「アキちゃんを推す」で気になったところ。
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(前略)つまりこの作品は、言い訳することなく、またうまくハードルを飛び越えたと感心もさせない方法で少女たちが「今も生きている時間」を描くことに成功した、(後略)
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上の引用部分の「少女たち」は「イメージとしての存在」のように感じられる。「少女たちが」と書いたところで、紋切り型になってしまう。