昔話法廷「白雪姫」

珍しく被告人の王女が全面的に犯行を否認している。
わたしは王女は無罪だと思う。

りんごに王女の指紋がないことは、手袋をするなどの方法があるから決め手にはならない。

白雪姫は「助けられた王子とは、助けられた時が初対面だ」と言ったが、これは狩人の証言からは嘘だった。嘘をつかねばならない理由は何か。王子からも聞き取れば、よりはっきりする。
意識が薄れる中での高笑いから、王女の声だと分かるものかどうか。
リンゴ売りの風体について白雪姫は「大きなフードをすっぽりかぶって、鼻も魔女のように大きかった」と述べている。命を狙われている白雪姫ならば、じゅうぶんに警戒すべき風体ではないか。
この事件は、白雪姫と王子の共謀による自作自演だと思う。    

昔話法廷「浦島太郎」

検事が乙姫に「犯した罪をしっかり償ってください」と言った。執行猶予付き判決を得て、執行猶予を満了することは、罪を償ったことにならないのだろうか。そんなことはない。だから、執行猶予に対する反論にはならない。

毎日書くことは叶わなかった。スタートの一月一日の記述からして、ちょっと無理があった。これからは無理せずに、極力書いていきた。

テレビ番組「昔話法廷」

ひ孫一が家に泊まった翌日の朝、テレビでこれを観ていた。面白いんだよ、と言っていて、わたしも観た。「アリとキリギリス」の話だった。難しい話だな、と思った。今、パソコンで見直してみたが、やはり難しい。「それは、こう思っていたからではないですか?キリギリスが死ねばこの優越感を覆されることはなくなる、と」いう検事の質問は、アリの内心に立ち入りすぎるのではないかな、と思った、という感想は変わりなかった。アリの「わかりません」という答えは、わたしも分かる。わたしの結論は「アリを有罪にはできない」だ。仮に「キリギリスが死ねばこの優越感を覆されることはなくなる」という気持ちが内心にあったとしても、家族の分しか食糧がないこと、不測の事態に備える必要もあること等から、「アリを有罪にはできない」つまり「アリは無罪」だと思う。
「三匹の子豚」も、今、パソコンで観た。「豚肉パーティー」という企画が、何らかの形で豚の方からオオカミに伝えられたのか、あるいは、そういう企画はまったく存在しなかったのか。そこが豚の有罪無罪を決める、大きな(決定的なといえるくらいの)要素だと思うのだが、検事も弁護士も、そこに触れることが少なかったと思う。脚本への不満です。

『推し、燃ゆ』宇佐見りん

主人公の「あかり」は、「推し」の関しては、勤勉、克己、合理的、学究的等の言葉で表現できる行動をとれる。「推し」について書いている文章も沈着冷静で明晰だ。「推し」に対する自分の関わり方を「あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった」と
言っている(この一節以外でも「解釈」という言葉を使っており、「解釈」が「推し」との関わりについてのキーワードになっているようだが、わたしには、ここでの「解釈」という言葉のイメージが浮かばなかった)。
こういう「あかり」だが「推し」に関すること以外では、うまく生きられていない。母や姉との関係が原因なのだろうか。その辺りーー家族の問題ーーについては、書き古されたことに思える。
「推し」活動に徹して、書いてほしかった。

「スリムレッド」の話#買って良かった2020

昨年11月に、りんごを珍しく買った。最初の値段から値下げされていたことと、小さ目は小さ目だが、六個という個数が値段の割には多いような気がしたことが買うことを決めた理由だった。

帰って袋から取りだして手に取ってみて驚いた。自然に開いた大きさの、お椀の形にした手にぴったり収まった。りんごは手から握る力を感じないし、手もりんごから押し開く力を感じない、そういった関係だった。

その大きさの感覚が手から頭に伝えられたのだろうか、丸かじりという言葉が頭に浮かんだ。本来なら袖できゅきゅっと拭いて、というところだが、そこはやはり水で洗いはしたが、すぐにかぶりついた。

自然に手を開いて作ったお椀の大きさと口の大きさは一致しているのだろうか。自然にかじることができた。芯も種も摘まむ取っ手の部分(「果梗(かこう)」というそうです)まで食べられた。要するに、何も残らなかった。快感が忘れられずに、ラベルに書いてあった安曇野市の生産者にその品種「スリムレッド」を注文した。

下記は送られてきた品についていたスリムレッドの説明書きです。

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「ふじ」と「あかぎ」というりんごの掛け合わせで生まれたりんごです。朝食や筋トレ後にお勧めです。

皮ごと食べられるよう減農薬栽培しました。

保存の仕方:りんごは冷蔵庫に入れてください。

ピニール袋に入れて冷蔵庫で保存すると長持ちします。

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「筋トレ後」という狭い事象を挙げているところに、微笑ましいリアリティを感じますね。

 

 

『わたしに無害な人』チェ・ウニョン 古川綾子・訳

この中の「過ぎゆく夜」の中の一節

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コンムの書いた文章を読みながら考えた。私は、私を少しも理解しようとしない人間のことを理解しろと強要されていたのだと。

大人になってからも誰かを理解しようとするたびに、実はその努力は道徳心からではなく、自分が傷つきたくなくて選択した、ただの卑怯さではないのかと自問した。どうにかして生き残るために子供のころ使っていた方法が習慣で慣性となり、今も作動を続けているのではないだろうか。思慮深いとか大人びている言葉は適当じゃなかった。理解、それはどんなことをしてでも生きてみようと選択した方法だったのだから。

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同じく「過ぎゆく夜」の中の一節

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記憶に残らない時間はどこに向かうんだろう……

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ここを読んで、読んでいる途中の別の本に同じようなことが書いてあったような気がした。

これから、それを探してみます。