『文学の可能性』大岡昇平

この中の「私の文章修業」(初出「週刊朝日」1978年11月10日)抜き書き

「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」
(……)
これは芭蕉によって開発された、もはやわれわれの伝統として定着した象徴的感性である。
ところが私はこの手の思わせぶりは子供の時から大きらいであった。私は私の好きなスタンダールと共に「沈黙に耳を傾ける」の如き句を書かないことから、はじめたのである。「岩にしみ入る」ではなく、必ず「岩にしみ入るように」と書く。(……)これは直喩といわれる比喩だが。使い方によって、却って強い効果を出す場合がある。それを私はダンテの『神曲』から教わった。
「息せきあえぎ、安全な岸へ逃げ果せた海の泳ぎ手が、危険きはまりない波濤のさかまきをひと目ふりかへるように」
(……)
もっともこの手の比喩は始終使ってはいけないので(われわれの言語生活が隠喩中心に行われているのだから)、私も拙作『野火』で使ったのは一個所だけである。

私がさし当たって試みたのは、繰返しを怖れない、ということであった。日常語では「そんなことやめときなさい。やめないと−−」という風に、まちがいのないようにむしろわざと繰り返すのに、文学語となると「やめる」を「さける」とか「抑制する」なんていい替える(あまりうまい例ではないけれど)。(……)こんなことをやめることができるのを教えてくれたのは、やはりスタンダールだった。
パルムの僧院』は『赤と黒』と並んで彼の二大傑作であるが、濡れ場は一個所しかない(『赤と黒』は三個所)。(……)この大事な場面に二行の中に同じ字が出て来る。(……)
『ファブリス』はほとんど無意識の衝動をおさえかねた。何の抵抗もなかった」(古谷健三訳)。生島遼一さんの訳も大体同じ。わたしも同じように訳した。(……)「……に抵抗できなかった。なんの抵抗もなかった」とは、訳し切れなかった(いまでは後悔しているけれど)。

文章とか文例とかいうものにとらえられないこと−−これを私は読者にすすめたい。それから、なるべくわかり易く書くこと。「文体は経済である」これも誰か西洋人の言葉である。なるべく少ない言葉で、自分の言いたいと思うことを読者に伝えること−−これは、紙と活字の節約だけでなく、読む側に一種の快感を生むから結局、とくだ、と思う。

上記引用末尾の「とく」に傍点あり。