『二十世紀の小説』ジャン=イヴ・タディエ

延長した貸出期限が8月4日なのだが、まだ第一章を読んでいる。読み終えられないと思う。読んだ範囲でどうやら理解できたような気がする部分で、これは、と思ったところです。

しかしいずれにせよ、作者の立場に立つならば、《私》はということには、いくつかの大きな利点がある。話者と作者の間で、一時的であれ思考の共有が始まり、まずは思考への開放が起きる。つまり巧まずして読者としても、考え、論じているその頭脳に入りこむことになるだろうし、苦しみ行動するその人の身体に入りこむことになろう。しかしこれがプルーストによって書かれた三人称小説『ジャン・サントゥイユ』の《彼》のように、たとえ自伝的なものであったとしても、コミュニケーション行為に参加していない非在人称、ディスクールの客体であったなら、それは我々の知的な侵入に対して鎧兜で対峙してきて、共有は生まれない。この《彼》は、私−読者でもなく、彼−作者でもおそらくない。でも、《私》であれば、推測が広がりだす−−この《私》は作者ではないのか、読者ではないのか、と。一人称による語りの場合、話者が作家と混同されることはなくても、作者という圧倒的なまでの存在が押しつけられてくる。しかし一人称の語りはまずは執筆という行為のなかで生きられるものなのだ−−一人称で書いてみれば、そしてそれがたしかに想像によるものであることを確かめるためには、この《私》からいったい何を《取りのぞけばよいのか》はすぐに理解できるだろう−−それからまたこの一人称の語りは、読むという行為においても再発見される。カフカの『巣穴』(「ぼくは巣穴をつくった。うまくできたようだ」)では、その作者(カフカはマックス・ブロートに書いている、「親しいマックス、ぼくはあらゆる方向に走りまわっている、そうでなければ、坐り、石と化してじっとしている。絶望した動物が巣穴の中でそうするように」)、そして作者と同時に読者を話者の《私》のなかに閉じこめる閉所恐怖症的なまでの力のある部分が汲みとられている。しかし『変身』は三人称体であり、これほどまでの妄想症的な暴力には達していない。『変身』の三人称の毒虫は他者であり続け、《それ》は他者である。

追記
引用中の「石」が「医師」になっていたので直しました。